takakazuのブログ

家庭菜園と、趣味での小説

伊藤君の大誤算・その11

伊藤が、いきなり専属キャラクター云々と口走ったので冴子たちより店長がびっくり顔で彼を見ている。目の前に置かれたコーヒーも目に入らないようだ。
「い、伊藤君、そりゃあ先走り過ぎだよ~。海のものとも山のものとも・・・いや、失礼。と、とにかく何の肩書きもない君が勝手に推し進めることじゃないよ。今日のところは住所と電話番号だけ訊いて後日改めて話し合うべきだよ。」苦々しい表情で里中が言う。
「店長、鉄は熱いうちに打たなければダメなんです。テイク・ア・チャンス!今、この時にしかありませんよ。」伊藤は頑として譲らない。店長はハヤテの飛んでいるところを見ていない。人が飛ぶなんてあり得ない。伊藤の口車に乗ってガセなら出世どころか、クビになりかねないと思った。なんでこの男は上司の自分を飛び越えて権限もない身分で交渉しているんだ?そう思うと無性に腹が立ってきた。「伊藤君、大概にしてくれないか?上司の私がもっと慎重に事を運ぶべきだと言っているんだよ。私の言う事が聞けないのかね?」里中が顔を赤らめ目を吊り上げながら声を荒げた。この一喝でこの若造は間違いなく萎れるだろうと思った。だが伊藤は冷めた目で里中を一瞥すると「店長、こんなところで内輪もめはやめましょう。響様たちに失礼です。」申し訳ございませんと、ふたりに頭を下げ、「ほんの1,2分時間を下さいね。」と言って、トントンと店長の肩を指で叩く。(なんだ偉そうに!)カッときたが後について行った。給湯室に入るなり伊藤が噛みつかんばかりに顔を近づけ「お前、専務の名前言ってみろ!」とおもむろに訊かれた。「おっ、お前って・・・お前ってなんだ!上司に向かって!」「上司、上司ってうるさいんだよ。いいから答えろ。」「そりゃあ伊藤 忠雄殿に決まってるじゃないか。」「じゃあ、俺の名は?!」「伊藤 忠利・・・えっ?伊藤?」「息子だよ!忠雄の息子だ。俺は自分で言うのもなんだが変わりもんでな~。現場第一主義なんだ。だから親父に頼らず一から、のし上ろうと考えてる。」佐伯会長の長女が伊藤忠雄のもとに嫁ぎ忠利はその長男だった。つまり、会長の孫に当たる訳だ。「俺の素性は言いたくなかったんだが、まっ、仕方ないか。」萎れてしまったのは店長の里中の方だった。伊藤がにこやかに戻ってきて席に着く。その後に、今にも泣きそうな顔をした店長が覚束ない足取りで歩いて来た。冴子らは一体数分の間にふたりに何があったのだと、まじまじと伊藤らを視た。
「私の考えてることはですね~。」と伊藤が切り出しても、店長は俯いたまま全く反応を示さなくなった。「週に3回アトラクションに出演して頂きたいのです。子供連れが多い金、土、日ですね。コスチュームはこちらで用意します。そして胸とマントに我がデパートのロゴを入れます。一本歯下駄は、インパクト抜群ですから、そのままでいいです。後は・・・素顔を見せたくなけりゃ被り物ですね?そうだ、天狗の面なんてのもいいかも知れない。」ハヤテがすかさず「天狗の面なら・・・」と言い掛け冴子に手のひらで口を塞がれた。「そして、雑魚キャラをやっつけて今日みたいに飛んで去っていく・・・みたいな。約30分の劇を、午前と午後に1回づつです。ああ~、楽しいだろうな~。」伊藤は思わず、夢見る乙女のような表情で天井を見た。
「あの!せっかく夢心地のところ悪いんですけど、その話お断りします!」ピシャリと冴子が言った。「まるちゃんのチカラを見世物になんかしません。見損なわないで下さい。行こう!まるちゃん。」ハヤテの手を握り冴子が立ち上がった。「いい話だと思うんですけどね~。残念ですが、うんと言うまでこの部屋から出せません。」ドアの両端に体格のよい男が二人、垣をしている。「まさか、拳法の達人とか?もしそうであってもそんなに大量の荷物を持ちながらではね~。しかも彼らは空手の有段者ですよ。悪いことは言いません、もう一度席にお着き下さい。」余裕の表情で伊藤が微笑む。だが冴子は大らかに笑い「どんな達人でも私にかなう者はいなくってよ。」と言う。伊藤はその言葉に首を傾げ(何か、とんでもない隠しだまが・・・)と思う間もなく、すでに冴子の合図によって耳栓をしたハヤテの手を取った冴子の口から,透き通るようなソプラノで『シューベルトの子守唄』が聴こえてきた。だが、その歌を聴けたのは、ほんの出だしだけだった。事務所に居て歌声を聴いた全ての者はバルサンにやられたゴキブリの如くバタバタとその場に倒れ、安らかな眠りに着いたのだ。