takakazuのブログ

家庭菜園と、趣味での小説

伊藤君の大誤算・その12

冴子は事務所の扉を開け放ち一段と歌声を張り上げた。冴子の歌声を聴かせて眠らせる能力は、移動する際には不利となる。
歌声が届かなくなれば、術にかけられていた者はすぐに目覚める。現状を取り戻す時間は個々によって違い、普段の寝起きとほぼ同等だ。
だが目覚め後も、いきなり眠ってしまったというショックと夢の内容を引きずって、しばらくは茫然自失となり即座に行動に移れないのが普通だ。
その間に脱出しようと冴子は考えている。店内の構造を頭の中に描く。事務所に連れてこられた時、一応出入り口のチェックをしていたが、やはり入ってきたドアから出るのが妥当だろうとの結論に至った。違うドアから出れば、位置感覚がずれて立山らの待つレンタカーにうまく辿り着けない気がしたからだ。(店内は危険だが、入ってきたドアまで行こう)事務所は1階でテナントフロアから離れた場所にある。正面玄関のドアまで相当の距離がありそうだが致し方がない。歌うのは一時やめて通路を早足で駆けて行く。ハヤテの持つ荷物を手分けして周りを警戒しつつ進む。ハヤテは横にいて、必死に付いてくるのだが耳栓をしていて三半規管が正常に働かず足取りが不安定だ。通路の後ろが騒がしくなっている。おそらく目覚めた社員が追ってきたのだろう。
通路の正面の観音開きのドアを開けると強い光が視界を覆い二人は立ち眩みした。薄暗い通路からいきなり無数に取り付けてある蛍光灯が店内や商品を華やかに照らしている食料品売り場に出たからだ。
一瞬、立ち止まってぐるりと見渡したふたりは、正面玄関に向かって再び走り出した。買い物客が訝しげにこちらを見るが気にしている暇はない。
後ろから一塊になって追って来ている伊藤達の気配がひしひしと伝わって来る。すると・・・目指す出入り口が10メートル程先に見えて来た。(あれだー!)ふたり同時にそう思い顔を見合わせた。周りの客たちが、ざわめきだしたして後ろを振り向くと、血相を変えた伊藤を先頭に、10数人の団体が目の前まで迫って来ていた。冴子は仕方がないと立ち止まった。客を巻き込んでしまう罪の意識がちらりと脳裏を翳めるが、もう歌うしかない。胸に空気を思いっきり溜め込んだ。そして買い物袋を持った両手を大きく広げベートーヴェンの第九交響曲『歓喜の歌』を声高らかに歌い出した。